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色とりどりの秋!お気に入りの紅葉ショット!
この季節、余り山とか原っぱなんかには近付かないんだ、蛇様なんかがお集りになって冬籠りのご相談なんかなさってる「旅とお散歩」じゃなくって「蛇とお散歩」なんて、ウ〜嫌! なんだけど、一寸前仕事で高幡不動に行った。早く終わったんでお不動様をお参りした。五重塔なんか建ってた(寝てたら大変だ)なんか有り難い雰囲気に包まれたのでシャッターを押した。
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# by chinhirohito | 2013-11-05 18:59 | 報告書
商店街の中程に新しくカレー屋が出来た。3日間限定240円 混んでたけど行ってみた、10分待って店に入れた、カウンターと向かい合わせに座れるテーブル3個、30歳くらいの女、テーブル二つ荷物で占領してた、強引に相席で座った、表には客が何人も待ってる、カレーの味はまあまあ、図々しい女も女だけど店の客あしらいも良く無い、次の日も出掛けた、少し冷たいカレーだった。 今日から740円になるんで行かない。 ウチの商店街繁盛してるが、しょっちゅう店が変わる。
追加報告。約半年やってたが潰れた。高い家賃払ってんだ、余程稼がないと潰れる。 そうだ、大家になろう
# by chinhirohito | 2013-02-07 19:50 | 報告書
 脱北者が駆け込んで対応の拙さが問題になった在中日本領事館が在る「瀋陽」(中国語読みではシェンヤン)戦前は「奉天」と謂いました、日露戦争の終盤に両国陸軍が世界史に残る大会戦を戦った場所です。その主要な舞台となった大きな河の畔に、ロシア人貴族が住んでたとか言う矢鱈天井が高いなぁという印象しか無い家がありました、父が手に入れて私が生まれてから4歳頃迄住んでいた家です、家というより屋敷、城館の部類に入ると思います、小さかった私は勿論、父も母も屋敷の全貌が良く判らない裡に私が小児結核に罹って大きな病院の在る市街地に引越しましたが、家作の中に現地の使用人の住む家も有るので手放した訳ではなく時々帰って使用人の子供達と犬の子がじゃれ合う様に遊んだ記憶が有ります。
 大凡在満邦人の生活は本国の日本人に較べると相当豪勢な物でしたが、中でも父の様な「大倉商事」という商社の要職者となると今の日本でも一寸難しい贅沢な生活を送れたのです。ある種の人達が言う様に「他国人民の搾取の上に立つ生活」かも知れませんが、同種の人が言う様に若し戦争が無ければ、私達はその搾取とやらを延々と続け、私はずーっと「良いとこの坊ッチャマ」として何不自由の無い安楽な生活を送れた筈です。
 ま、そうは問屋が卸さない、現実として日本は大東亜戦争を戦い、戦いは我に利有らずの結果になり、卑怯にも死に体の日本に後ろから襲いかかるソ連の参戦で、本国より先に在満邦人は運命の激変を味合わされました。
 内地の人に言わせると「酷い目に遭ったね」ですが、大陸生まれで何事も殆ど良い方に解釈する思考構造だと、些か受け取り方が違います。
 少なくとも引揚げ後日本の学校で怪しげな教師から受けた赤化教育に対する強いワクチンにはなりました。
 後にその時分の関係者の話を聞いてみると、父達の思惑では、現在第一線の在外商社マンの基準から言えば甘い見通しですが、まさかソ連にオカマの趣味が有るとは露知らず「満州が戦場になるのは本土決戦の後」と踏んでいた様です。
 しかし情報に接した後の行動は戦時下の商社マンらしく見事です。異変を逸早く察知した父達会社幹部は、八月十日の昼頃には満鉄車両一列車を奉天駅に確保し、社員家族を乗せ、会社の食品工場の在る「瓦房店」(ガボウテン)迄疎開させました。 結局、私達家族は、後世「関東軍や満鉄、大手商社の幹部は早々に家族を安全圏に逃がし乍ら一般邦人を見捨てた」と批判された事の一端に参加していた事になり、父はその実行者の一人になりました
# by chinhirohito | 2008-11-20 21:59 | 防衛省
 数年前アルバイトでやってるエキストラで「牡丹江」駅に殺到する日本人の群れの一人に扮しました、大混乱の中、大八車に荷物を満載した人達が執銃着剣した憲兵の群れに守られた駅に血相変えて集まって怒号を上げていました、同じ日の奉天とは随分違いました、母や祖母、同じ会社の婦人連、何人もの現地人の使用人に荷物を持たせ、思い思いの盛装、大連の星ヶ浦海岸に毎年恒例の避暑に出掛ける風情、大柄な母は白い半袖のワンピースに大きな白い帽子が良く似合いました、白い夏服着用の駅長が迎えに出て皆は談笑し乍ら何の混乱も無く特別列車の待つホームに案内されて行きました、駅前広場はいつもの朝と同じ、客待ちの洋車(人力車)曵きがノンビリと屯していました.
 少ない情報と周りの状況から、此の戦争は敗戦に終わるんじゃないか・とは薄々感じては居ても、畏れ多くも天皇陛下ですらあの時点でそれが八月十五日になるとは予想されていません、東京から遠く離れた奉天でそんな事は想像すら出来ないのです。行く宛も無く血相変えて汽車に乗り込んだ所で、当時の大倉商事や満鉄の威勢を持ってしても、その先日本に帰る船は確保出来ません。
 当時の在満邦人は日本の勝利を確信していましたし食料や日用品は潤沢に供給され、殆ど空襲も無く、少ない情報は内地の窮状を充分伝えて呉れません。唯ソ連が参戦したので万一を想い、日本に近い所に疎開する程度の行動と思います、私の知る限り奉天では映画の様な混乱はありませんでした。
 追々判った事では、どうも外地で仕事をする大きな商社では、今も昔も非常時に対応するマニュアルを持っているらしく今回もそれに則った行動だったのでしょう。
 奉天に居る社員の家族を「瓦房店」に疎開させると同時に満州各地に散在している社員を奉天に集め、順次瓦房店に移動させ全員集合した所で好機を待って日本に引揚げる。全員の帰国完了は満州が冬に入る十月前と計画していた様です。
 計画は悉く失敗に終わります、ソ連軍の進撃を阻む筈の精強関東軍は何時の間にか南方戦線に引き抜かれて居り、無人の野を行くが如くソ連軍の進撃は当然疾風迅雷、これに呼応して各地で匪賊が盛んに跳梁跋扈し、日本人の移動はおろか相互の連絡さえ容易ではないという事態に追い込まれて行ったのです、早く集結移動を何とか連絡をと焦っている裡八月十五日終戦の詔勅を仰ぎ、在満日本人の運命は敵手に委ねられる格好になりました。
 ソ連軍によって鉄道が接収されてからは日本人も現地人もあの広い満州で汽車移動が出来ません、結局、父達男は奉天、私達女子供は瓦房店と隔離されて生活する事態に陥りました。
 日本の常識では、終戦イコール平和の到来という事で民主的な政治形態の基、自由で平和な毎日が保証されてた様ですが、独ソ戦その侭の混乱を手土産にソ連軍の侵略を受けた戦場とも言うべき満州では大分様子が違います。昭和十五年生まれの私はこの時五歳でしたが、貴重な体験が出来たと思っています。
 私達の疎開した瓦房店の食品工場は主として関東軍に納入する缶詰を製造して居り、将来、満州はおろか世界中に瓶、缶詰食品を輸出出来る綜合食品会社を目指して造られていました。未完成乍ら付属設備として農場、牧場、養豚鶏場、養魚池、山林等を広大な施設内に持ち何時でも瓶缶詰の中身の原料が自給出来る体制を持つ食品工場を目指していました、瓦房店の駅から約10キロ程離れた、見渡すばかりの緩やかな起伏を持った高梁畑と牧場の中に在り、大きな養魚池の畔に茂る柳絮の木が涼しげに揺れる、私が生まれて初めて見た田舎の美しく平和な場所でした。
 大倉商事は現地人の地主から此の場所を買収はしましたが小作人にはその侭耕作を続けさせ、農産物を土地の買収以前より高額で引き取り、新しい農業技術や食品加工技術等も積極的に日本人現地人の区別無く伝授し前出養魚池施設等は灌漑池を新しく会社が出資して作って其れの副次的な利用であり、夏休み中でしたが、小規模な日本人現地人の区別無く通学出来る学校も在りました。
 現地人との関係はすこぶる良好で終戦後も施設は稼働して、管理権の受け渡し交渉で多くの現地人が出入りし賑やかで活気に満ち、日本人が現地人から乱暴狼藉を受けると言う様な事態の発生は微塵も見られない状態でした。
 父達が計画した在満社員集結場所としては食料の面から言えば最適で関東軍等居なくても数年間は遊んで暮らせる場所であったと聞かされました。
 周辺には満蒙毛織、満蒙製薬、満州葉煙草、等と言う大きな会社の工場や畑も在り、平和で豊かな満州国の風情が感じられる場所でした。
 話を飛ばしますが、企業が外国で現地人を使って成功しようとした場合、日本の一部小説等に出て来る様な、現地人を蔑み、低賃金で過酷な労働を強いる、搾取形態を執っても長期に亘って採算の合う操業は不可能です。
 五族共和して王道楽土の地を建設する気概で業を興し 彼も栄え我も潤う積もりでないと操業は建ち行かなくなります、ひねくれた見方をする人はそれも搾取の一形態と見るかもしれませんが、私達が奉天から到着した日、瓦房店の駅では現地人の使用人が私達一行を慇懃に待ち受け、数台の自動車と洋車、馬車に分乗して工場の近くに在る宿舎に迎え入れられました。
 流石に八月十五日玉音放送を拝聴した際には、双方に緊張が走りましたが何事も無く過ぎました。
 混乱の兆しを見せたのは終戦後数日経った頃、数人で現れたソ連兵達です、中国語や英語を理解していたという事ですが、猛烈な匂いが第一印象、敵意の無い印に私達から見える離れた所に武器を置き、見張り一人を置くと丸腰で我々に近づき、食べる物と水を礼儀正しく要求してきました、駅に着いたら食べ物の匂いがしたので元を辿って来たのだそうです、祖母等の話ですと手の甲に数字の入れ墨をしていたそうで、巷間謂われていた囚人兵です、が、乱暴狼藉に及ぶ事は無く、可哀想なくらいお腹を空かせてた様子、缶詰にする魚やほうれん草の水炊きを大喜びで食べ、土産に持たせた煙草と缶詰に鄭重な礼を述べ、酒は飲まず、水筒に詰め替えて持ち帰る等、手の入れ墨に不似合いな洗練された紳士的な態度を見せたとの事、年齢の高さから、同じ囚人兵でも政治犯だったのではないかと思います。
 その侭駅の警備兵になった様で、時々現れる様になり、気心が知れる様になると丸腰で来て風呂に迄入って行きました、この連中私達が瓦房店を逃れ奉天に戻る時には大活躍をして私達を助けて呉れたんですがこれは又後ほどの話。
 次に現れたのは、戦車を先頭に兵を満載したトラック数台と大量の空のトラックからなる徴発部隊です、西部劇で見るインディアンスカウトの様に大事な物を日本人は何処に隠すのかソ連兵を案内する輩迄居ました。
 彼に案内されるまでもなく此処は彼等にとって宝の山同然、満州大倉商事の誇る多分当時世界最大の缶詰工場だったのです、気の利いた中国人の使用人が養豚場や牛舎の扉を開け中の動物を逃がそうとしましたが、忽ち短機関銃の一連射を浴び大きな叫び声を上げのたうち回ってるのを横目に工場内に備蓄されていた食料、燃料を中心にあらゆる物を手際良く整然とトラックに積み込み何処かに運び出しました。
 後に残ったのは養魚池の中の魚、取り入れ前の米、梅干し、昆布、鰹節、酒粕、親から散々聞かされて、覚えてしまった、何故か彼等サツマイモ大好き.現地人を使役に使いましたが自分達でも苦労して畑から掘り出して麻袋にきちんと入れて積み込み、休憩時間には水で洗っただけの生芋盛んに喰っていました。
 此れから冬に向かう満州で必要な燃料の類いは空になった倉庫の扉迄持って行く物凄さ、占領地からの物資の徴発を目的に、訓練された組織でなければ出来ない芸当です。この様な組織を持つソ連軍とは、搾取に苦しむ人民を資本家の頸城から解放するなんてお題目からは程遠い組織であると言えます。気の強い祖母はロシア語も少しは話せたので彼等に「こんなに何もかも持って行かれたのでは冬には皆凍死する」と抗議した所先刻のインディアンスカウト、祖母を未だ死に切れずにうめいて居る中国人の傍迄引きずって行き、拳銃を数発撃ち込んで止めを刺し、余りの事に声も立てずに立ち竦む祖母に対して流暢な日本語で「冬の寒さが怖けりゃ今の裡に皆、楽にしてやろうか」と言ったそうです。今迄はロシア語を話していましたが本当は日本人、早い時期にソ連に逃げ込んだ共産党同調者の醜い姿(ノモンハン事変で捕虜になっても時間的にあれほど流暢なロシア語は使えない、とは現地人の学校の先生談)ソ連兵は周囲に居る女性に乱暴をする気配を見せましたが、中国人が殺された事で周辺に住む中国人が大挙して工場周辺に集まり不穏な情勢になった為それどころではなくなり不眠不休のピストン輸送で翌日昼過ぎ牛舎と養豚場に放火して引揚げて行きました。
 数日後か直ぐだったのか記憶が定かではないのですが、今度は中国人の暴動が起きました、暴動と云っても些か間の抜けた騒ぎ、攻撃の矛先は先ず工場の機械に向けられました、缶詰の製造ラインに土砂を投げ入れ、ベルトコンベアのベルトをずたずたに伐り、ボイラーから来る蒸気パイプと窓ガラスを丁寧に外して持ち去り、工場の設備を使えなくし、次いで事務所に侵入、事務用品や什器を持ち帰り、最後に日本人の居住区に押し入り略奪を始めました、あらかたは先に来たソ連軍に持って行かれたので大した物は残っては居なかったのですが、価値観の違いからかこんな物が欲しかったのかと云う様な、仏壇とかカットグラスのコップ、大きな釜、漫画の書かれた子供用の茶碗等を大事そうに持って行きました。
 応接間に置いてあった硝子の煙草入れと灰皿を巡って取り合いが起き、殴り合いの喧嘩になり祖母に仲裁を頼みに来る等、真剣味に欠ける暴動でした。何時も気の強い祖母は彼等に詰寄り「明日にも工場はお前達の物になるのに何故壊す、何故日本人を殺さない」と問い詰めましたが、彼等からは曖昧な答えしか返って来ず、皆「此処で日本人に乱暴を働いたり殺したりすれば次の戦争で戻って来る日本兵に酷い報復をされるから」と答え「決して日本人には手を出すな」と、申し合わせたとの返事でした。「日本人が居なくなれば自分達の物になると期待していた品々をソ連軍が皆持ち去ったので半分自棄になって暴動を起こしたんだろう、可哀想に」が祖母の残した感想です、被害者から同情されてちゃ世話—ねぇやと思いますが、彼の国四千年の歴史の中で庶民が明日に希望を持てた一瞬の時間だったのかもしれません。
 祖母の観察通り現在に至る迄彼等庶民が誰からの搾取を受けず平和で安寧した豊かな生活が送れる時間は得られず、未だに密航をして国を捨て、挙げ句の果て、こそ泥を生業にする、四千年の歴史を誇る民族が哀れです。
 瓦房店は満鉄の分岐点である奉天の副次的な都市で此処に種々物資の生産施設を置けば満州各地及び朝鮮半島への輸送が便利な訳で、日本企業は本土決戦に備えてこの地に工場を集中しつつあり、関東軍もこの地域の重要性を理解して戦局の末期に至るまで精強部隊を駐屯させて居た様です.彼等を目にした現地人達は日本軍の強さを充分評価していたのでしょう、お陰で我々の命だけは助かりました。
 .恐ろしい事、悔しい事、悲しい事等一杯ありましたが何時か必ず日本軍が、あの精強な皇軍が戻って来て誅懲を下して呉れると信じたれぱこそ、全てを我慢できました。多くの同胞がこうした希望を胸に抱きつつ略奪され、誘拐され、凌辱され、殺されていったのではないでしょうか。残念とも無念とも言いようがありません。
 此の暴動の結果、先のインディアンスカウト、中国人暴動の原因を造ったとの罪でソ連軍の軍法会議だか人民裁判とかに付され公開処刑にされました、罪状なんかどうでも良かったのです、工場の大きな施設は時間を掛けて分解しソ連に持ち帰る計画が中国人の暴動で狂わされソ連側の指揮官は責任を問われます、もう要らなくなった走狗に罪状をなすり着け責任を逃れたのです。
「嫌だー、怖いよー、おっ母ー」と喚き叫び乍ら引きずられて行きました、粗末な絞首台で中々死に切れずもがき苦しみ、集まった現地人の群衆からは喝采と投石を浴びての末期でした。
 幸いな事に私達は終戦の年の十二月再び奉天に戻り翌二十一年七月やっとの思いで日本へ引揚げてきました。
 舞鶴湾に浮かぶ島々の美しさ、舞鶴から母の故郷、三重県鈴鹿市迄移動中の車窓に迫る木々の緑、川水の清らかさ、大陸の荒野に比べ、生まれて初めて目にする箱庭の様なチマチマとした日本の佇まい、丁度「石取り祭り」の最中、永い旅を終えた結果は平和で清潔な可愛らしい水の多い場所、不思議としか云えない空間でした。
 祖母、父、母、と私達妹弟三人全員で六人、途中で一人も掛ける事無く全員無事でした。しかし、家族全員、無事に帰れた迄で、「引揚者」の境遇に変りは有りません、中国側から言わせると私達は不法滞在者、強制送還されたのです。
 現金一人千円と有価証券、貴金属、書画骨董を除いた担送可能の荷物しか持ち帰りは許されず早速貧乏のどん底です。
 祖父の残した立派過ぎる墓所が待っており、当時五十を超えていた父は終戦時の行動に対する世間の評価を汚名と恥じて社会復帰すること無く、不遇の裡に早速此処の住人になりました。
 仕事の他に日本画を能くし、満州を訪れる芸術家の世話もして、中国の美術品にも造詣が深く多くのコレクションを収蔵して居ましたが奉天に流れ込んで来た日本人難民と、部隊を離れて彷徨っていた日本兵救済の為、片っ端から売り飛ばしてしまいました、退職後は美術館を造る積もりだったと聞いています。
 それからの私は泥沼を這いずり回るような日々が続き、溺れて藻掻いて気がついた時にはかなりの不良少年になっていました。そんな時、ふとした機会に自衛隊へ入ったのですが実に幸運でした。
『M1ガーランドライフル』これが当時の自衛隊制式銃です.ずーっと永い間待ち捜し求めていた恋人に、ここでやっと巡り会えたような心境でした、満州時代、ソ連兵の持っていたバラライカ短機関銃を見て「あれが欲しい、あんなのさえ有れば・・こんな思いはしないで済むもののを」それ以来、心のどこかで待ち望んでいた物、BAR、ロケットランチャーetcが目の前にありました。
. 夢中でしたがやがて、自衛隊に只一つしかない写真中隊へ配属になりました.ここは写真中隊という名に似合わず武器の知識に関しては宝庫でした。
 その頃、外国の文献を幹部自衛官に読ませる為の翻訳複製版が大量に必要で、その作業を写真中隊がやっていたのです。つまり私はオリジナル版を幹部より先に読めたわけで非常に勉強になりました。
 しかし、ここで大失敗をやらかすことになるのです、
ここでの外国の文献の複製という仕事は勉強にもなり気に入ってたのですが、家内と結婚して所帯を持ちたくなり自衛隊を辞めてしまったのです。
 東京オリンピック景気に沸いている世間では仕事は幾らでもありました。先ず、下請けでしたが広告会社に入り半端な腕でしたがカメラマンをやりました。残業の多い忙しい職場でしたが良い仕事が出来、名指しで依頼してくる客もありました.そんな中でオモチャのピストルを製造している会社から引抜を受けました。
 裸の女の子を撮っているより私にとってなんぼか面白い仕事で、ここでも優遇されました。自衛隊時代に貯め込んだ武器の知識にも磨きがかかり、折からのモデルガンブームに乗って当時の流行語通り「モーレツ」に稼ぎまくり。大阪の万博にも出張しました。残念乍ら好い事は長続きしないものです、理不尽とも云える銃刀法改正に因りモデルガンが今迄通りには売れなくなり、会社にとって浮き足立った儲け狂いの社長や高給カメラマンは不要になりました。捨てる神あれば拾う神ありで、今度は玩具でなく本物の空気銃メーカーからお声が掛かりました、薄給ではありましたがテッポー中毒に罹っている私はホイホイと新会社へ移り、ここでの仕事も面白く一所懸命に働きました。
 今でもそうですが日本の銃砲に関する法律は非常に厳しく、仮令、空気銃と謂えど厳格な規制を受けていて、当然売れ行きは細々とした物です、勿論給料も細々、下手すりゃ遅配です。
 仕事に夢中になっている時は前後が見えなくなり家庭の事も忘れてましたが、或る日ふっと、我家の子供達に何となく生気が無く服装もみすぼらしく感じた瞬間がありました。原因は私の稼ぎでした。何時の間にか家計は火の車になっていたのです。胃袋に穴が空き円形脱毛症に悩ませられる程悪戦苦闘していても、お父さんは好きな仕事だから良いのですが、犠牲になる家族は、堪まった物でないでしょう。
 危ない所でした、早々にマニア垂涎であったコレクションを手放し銃の世界から「さよなら」し、その日の糧を求めてタクシーの運転手になりました。
 今迄の知識経験は全く必要ない世界で、決して多い収入では有りませんが一応人並みの生活が出来る様になり子供達も無事成長して呉れました。
 あの時代を振り返って見て。タクシー運転手という仕事に不満は無かったのですが日頃から残念に思って居た事があります。
 予備自衛官招集に応召する際、会社に休暇を申請するわけですが、休暇受理の枠は労働組合が管理しているのです。当然、台比への買春旅行なら兎も角自衛隊の訓練召集など良い顔はされません。すんなり休暇を貰うには常日頃からゴマを摺り組合幹部のお覚えを目出たくしておく必要があります。そのためデモの動員等あれば率先して参加し「もう少し回りに白い部分でもあればな・・・」とボヤキつつも汚らしい赤旗の竿を担ぎました。
 我乍ら惨めで浅ましく恥ずかしい姿です。

 過激な持論とお思いでしょうが何故日本の法律は銃砲の所持をこんなに罪悪とするのでしょうか、知識の吸収研究さえも危険視される始末です。
 少工校でモデルガンの所持を禁止して居る事を知って笑ってしまいました。武器庫には本物が収まってあるというのに何がモデルガン禁止ですか。
 政治家の中には自主防衛を口にする人が居ますが国民の最少防衛手段である銃を所持する権利を禁止しておいて何が自主防衛ですか。我々は侵略者から家族や自分の生命財産を守るのに一体何を手に執れば良いのか、かつての大戦時の様に高空を遊弋する重爆撃機に竹槍で立ち向えとでも云うのでしょうか?
 アメリカを頼りにし自衛隊に任せておけば、自分や家族の生命財産は安全だとでも云うのでしょうか?
 もし仮に前大戦で帝国海軍が勝ち進み太平洋を渡ってアメリカに上陸したとします。忠勇無双の我皇軍は小さな田舎町一つ通過するだけでも辻々に仕掛けられた地雷や家々の窓からの狙撃に悩まされることでしょう。
 彼の国では手続さえふめば昨日迄軍で使用していた武器でも市民が所持出来るのです、丈余の筒の前には鍛え鍛えた大和魂といえど如何とも為し難く、ホワイトハウスに日の丸を立てポトマック河畔の桜を見る前に九段の桜にされてしまいます。
 .もう一つ「もし」を云わせていただくと、終戦当時の在満日本人が家毎に火器を常備する習慣を持ち、寄らぱ斬るぞの気概を見せていたとしたら、あの用心深いスターリンが簡単にソ満国境を越える決心をしたでしょうか?
 私はタクシーの運転手時代、平和で芳醇な街を走り乍らこんな事を考えました。 この美味しそうな匂いは必ずあの北の国で腹を空かしている熊や虎に届いて居るに違いない、先端技術に満ちた列島に住む無防備で勤勉で教育の行き届いた国民・この国民と謂う字を奴隷と書き換える事は彼の軍事力を以てすれぱ不可能事ではありません。
 ナポレオンもヒトラーもドーバーの水に泣きましたが時代は変りました、四面皆海とは謂へ現代の軍事技術から見れぱ日本海は愚か太平洋ですら防壁たり得ないのです。 三つめの「もし」として、私が北の熊将軍ならこうして日本を占領します。
 議事堂に彼のお方がお見えになられ国政を司る諸賢が一同に合する、国会の開会式執行日を狙います。
 先ず、晴海埠頭へ船底に武器を隠匿した観光船を回航し観光客と称して良く訓練された兵士を乗れるだけ載せ送り込みます、大凡二百人は乗れます。
 、日本は、中に飛び込んでしまえば生卵と同じ、AK74を持った兵士二百人に瞬時に対応出来るシステムは存在しません、埠頭には前以て観光バスを手配します。
 晴海埠頭から霞ヶ関迄の移動時間内で彼等に対応出来る武装集団を配置するなんて事を、出来ると思います?
 その頃某国大使は日本に対し宣戦布告をします。
 国際法に留意してバス内で武装を整え戦闘服に着替え、一時間足らずで議事堂に到着した彼等は、警備員を排除、周囲を包囲、議事堂内で開会宣言を伝える為に御出座遊ばされた彼のお方を始め政府閣僚を人質に取り、銃を突きつけ降伏を迫ります。
 ピンクのスーツ着て居る女性議員と__たか子に早速回し執らせます、強姦されても抵抗はしませんが兵士は誰も相手にしたがりません。
 自衛隊に出動を命じる誰彼も、米軍に出動を要請出来る閣僚も、警察の頭も、皆人質で半日もすれば皇居前広場を赤の広場とか人民公園とか好きな名前に出来ます。
 突飛なアイディアだと思いますが、実行不能ではなく、やって出来ない事の無いアイディアです。
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 .日本の安全を自衛隊だけで防衛するには膨大な費用が必要ですが、限られた予算でさえ野党に突っつかれる、周辺諸国からは非難警戒されるで、結果としては生卵の殻を少々厚くした程度にしかなりません。
 何等かの方法で殻を破って中に入ってしまえぱ内側は柔らかで栄養満点の防衛手段しか備えてない国は狙われて当然なのです、一旦侵入を許したら、拳銃ひとつ触った事も無い人達がフランス映画よろしくレジスタンスなんて出来ますか。
 そこで、日頃から国民の銃の所持をNATO諸国程度に許可するだけで生卵を茹卵程度に堅くする事も可能だと言うのが私の主張なのです。
 国家予算を費す事もなく周辺諸国への配慮も不要、しかも潜在抵抗力は確実に増えるのです。
 では何故許可しないのか?
 偉い人達や警察官僚の答は米国の一部地域の例を挙げて「自由な銃の所持を許可すれば犯罪の増加に繋がり国民の生活を危険に曝す」というのが毎度聞かされる模範解答です。
 本当にそうでしょうか.・・・
 在外企業人が人質に穫られ、漁船が難癖付けられて船長が拘留され身代金を要求される、商船が攻撃を受けたり海賊に脅かされたり、はては国内に於てさえ散歩中のアベックが得体の知れない外国人によって誘拐され国外へ拉致されると言う様な事が現に起っているのです。
 日本国の対応はと謂えば何もしないか金を出すかのどちらかで「兵を出して報復する」・なんて事は端っから考えて無いのです。
 高い税金を払ってるのに国民の生命財産の安全を保障して呉れない自衛隊が労働組合に馬鹿にされても予備自衛官たるお父さんは黙って汚い赤旗を担ぐより仕方ありません。
 そして今、自衛官の中の何人がデパートやスーパーで日常売っている品物集めて時限爆弾を製造したり改造銃を造れるでしょうか?
 他国軍の使用している銃を入手しても、適合する弾丸を選び装填し安全装置を解除し照準を合せ発射する事が出来ますか?
 他国では字も書けない様な子供ですら普通に持ってる程度の知識を、防大を卒業してきた幹部自衛官ですら持って居ない、この様な現状こそ私の恐れる「誠に危険な状態」と云うべきではないか、と思うんですが
諸賢のご意見を伺いたい所です
# by chinhirohito | 2008-11-07 17:12 | 防衛省
 ニュースの頁に依ると自衛官の自殺が多いとの事、かつて制服を纏った事のある身にとって暗然とした気持になる、古くはマラソン競技で名を馳せた円谷幸吉三尉の事件を思い出すけど、最近のは些かそれとは赴きが違う様に感じられる。
 あの頃はサラ金で借金をしたのが返せなくなったとか、失恋とか、昇進試験に落っこちたとか、本人には同情するけど周囲に怒りを憶える様な性質の物は無かった様な気がする。しかし此の頃のは上司や同僚からのイジメが大半を占めるとか・・・・
 一体どうなってしまったんだ、私が現役の頃「浅田次郎」氏のお書きになった「歩兵の本領」で描写されてる、自衛隊内で旧軍の様な上官の虫の居所が悪くって暴力を振るうなんて鉄拳制裁はなかった。同じ駐屯地だが私より3〜4年後の話しになってる。
 私自身は散々ドジをこき、周囲にも迷惑を掛けた、今思い出しても恥ずかしくって汗が出る。大きな声で怒鳴られたり、腕立て伏せ遣らされたり、背嚢背負って銃を担ぎ、完全武装で営庭何周なんてしょっちゅうだったが、自分が罰を喰らうのは自分でも了解出来て充分反省もした、最後は「馬鹿もん此れからは気を付けろ」で後を引く事は無かった。風通しの良い職場だった。
 自衛隊は憲法9条と言う正妻を持った日本国の妾だと誰かが云ってたが蓋し名言、実家は貧しく教育もないけど昼夜を分たず文句も云わずに良く働き今じゃ本妻の影を薄くしてる、衛子さん、美貌と能力を認められる事は無く宙ぶらりん状態が続く、本妻には逆らえないから連れ子に辛く当たる、連れ子はグレるか首を吊るか・・・・
 何処かでクーって声がする、化けてデターって知らないぞ
自衛官の自殺_c0172304_17105117.jpg

# by chinhirohito | 2008-08-25 16:52 | 防衛省